人を説得する方法1:議論を避ける

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今回は、カーネギーの「人を説得する方法」の中から、「議論を避ける」ことを取り上げ、事例をまじえながら説明しています。

事例には西洋における現代の事例と、日本の戦国時代の事例を使うことによって、カーネギーの法則が時間と空間を超えて通用するのかも検証していきます。

人を説得する方法1:議論を避ける

カーネギーによれば、議論に勝つ最善の方法は、この世にただ一つしかありません。

議論を避けることです。

毒蛇や地震を避けるように議論を避けるのです。

その理由は、議論をして仮に相手を徹底的にやっつけたとしても、良い結果は得られないからです。やっつけた方は大いに気を良くするでしょうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだけにおわります。

議論に勝っても相手の好意は絶対に勝ち得ることはできません。

また、正しい議論をいくらしたところで、相手の心は変えられないのです。

人を説得する方法に係る事例1-1:パーティーで議論したデール・カーネギーの反省

このことについて、デール・カーネギーは彼自身が犯した若い時の間違いを告白しています。

ある有名人のパーティに出席していた時のことです。カーネギーの隣に座っていた男が〝人間が荒けずりをし、神様が仕あげをしてくださる〟という引用句に関係したおもしろい話をしました。そして、その男は、これは聖書にある文句だといいました。

しかし、それはまちがいで、カーネギーはその出典をよく知っていました。そこで、カーネギーは自己の重要感と優越感を満たすために、彼の誤りを指摘します。

そうすると「なに? シェークスピアの文句? そんなはずはない! ばかばかしい! 聖書のことばだよ! これだけはまちがいない!」。彼はたいへんな剣幕でそういいきりました。

そこで、シェークスピアの研究を長年つづけており、同席していたカーネギーの友人の意見を聞くことになりました。

その友人は双方のいいぶんを聞いた後、テーブルの下でカーネギーの脚をそっと蹴って、次のようにいいました。「デール、君のほうがまちがっているよ。あちらの方のほうが正しい。たしかに聖書からだ」。

その晩、パーティからの帰り道で、カーネギーはその友人に向かって、何でシェークスピアの文句だと言わなかったかを訊ねます。その友人は次のように答えました。

「もちろんそうさ。〝ハムレット〟の第五幕第二場のことばだよ。だがね、デール、ぼくたちは、めでたい席に招かれた客だよ。なぜあの男のまちがいを証明しなきゃならんのだ。証明すれば相手に好かれるかね? 相手の面子(めんつ)のことも考えてやるべきだよ。まして相手は君に意見を求めはしなかっただろう。君の意見など聞きたくなかったのだ。議論などする必要がどこにある? どんな場合にも鋭角は避けたほうがいいんだ」。

この友人はカーネギーに生涯忘れられない教訓を与えてくれました。カーネギーはおもしろい話を聞かせてくれた相手にきまずい思いをさせたばかりか、友人まで引き入れて当惑させてしまったのです。議論などしないほうがどれほどよかったかわからない、とカーネギーは書いています。

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『関ヶ原』でも、議論が相手の自尊心を傷つけ、憤慨するだけに終わることが描かれています。典型的な例は石田三成です。司馬遼太郎は、三成のことを「ひらき直ると、論(ろん)鉾(ぼう)のするどくなる男だ。―――もっともそのするどすぎる議論も、結局は他人の恨みを買うもとになっているのだが」と指摘しています。

人を説得する方法に係る事例1-2:理屈で相手を言い負かす石田三成

次の話は、秀吉が高熱を発して危篤状態に陥り、京都から三人の医師が来るまでの間の出来事です。暑い日であったので扇子を使う浅野長政を三成が批判します。五奉行の一人であった長政を理屈で言い負かし、長政の恨みをかう三成が描かれています。

(それほどご重体か)

と、三成は、血が一時にさがって、おもわず柱にもたれた。悲嘆もある。しかし危機感のほうがつよい。三成は座を立って、厠(かわや)で吐いた。あぶら汗が出ていた。

(いまお亡(な)くなり遊ばせば、豊臣の天下はこれでおわる)

数時間、京の医師の到着を待った。旧暦五月だからひどく暑い。

それでも、たれも扇子をつかおうとしなかったが、ただひとり、浅野長政だけは、パチリと白扇をひらいて涼を入れはじめていた。

・・・・・

「弾(だん)正少弼(じょうしょうひつ)(長政)どの」

三成は、刺すような声でいってしまっていた。

「扇子はおやめなされ」

「ホイ、なぜかな」

長政は、やや愚鈍げにみえる百姓顔を三成にむけた。この老人の直系の分家に、後年、赤穂(あこう)浪士事件の原因をなした浅野内(たくみ)匠頭(のかみ)がでるのだが、むろん、性格的にはどんな関係もない。

「いや、ただなんとなく」

といえば角がたたぬところを、三成はこれもくせで、理屈をいった。理屈など、いかにそれで言い負かしたところで、相手の名誉をうばうほか、なんの効用もない。

「殿下が苦しまれている。おうめき声までここまで聞こえる。少々の暑さは、我慢なさるのが、あたりまえでござろう」

「なるほどな」

長政は、首筋を赤くした。ふつうなら自分のうかつさを恥じ入るところだが、とにかく戦国の世に大名までのしあがるような男に、三成の思うようなしおらしさがあろうはずがない。

「三成、これでよいか」

ぱっと白扇を部屋のすみへ投げた。

三成は顔色ひとつ変えず、そういう長政をしばらく見つめたあと、やがて、

「ご念の入ったこと」

といった。諧謔(ユーモア)のつもりである。左近からはつねづね、

「男は愛嬌(あいきょう)でござる。太閤を見習い候(そうら)え。人間、瓢(ひょう)げたところと抜けたところがなければ大器になれませぬぞ。ことに、うまい冗談口をたたけるのは、男の一徳でござる」

といわれている。そのつもりで、

(長政めを怒らせた。どうすればよいか)

と時間をかけて考えたあげく、その諧謔にもならぬ諧謔を、あたまでひねりだしたつもりであった。

が、せっかくの「作品」も、ひねりすぎて毒をふくんだ皮肉になった。

「治部(じぶ)少(しょう)」

長政は、官位でよんだ。

「時が時だから、我慢をしてやる。いずれ息子が帰陣してから、ゆっくりと返礼するぞ」

と、長政は愚にもつかぬ悪たれをついた。息子に言いつけてやる、というのである。

まとめ

いかがですか?

日本では、欧米人は自分を主張するようにと教育されており、議論することが奨励されていると思われていますよね。そう思っている人にはカーネギーの「議論を避ける」というアドバイスは、ヘンに感じられるのではないでしょうか?

特に、欧米に留学経験のある人たちは、自分の意見を強く主張する傾向が強く、議論好きな人が多いようです。

しかし、私の経験からすれば、人から一目置かれている欧米人は、自分の意見を述べるときは時と場所および言い方に配慮しています。ところかまわず強い口調で自分を主張したりはしません。その点で、日本人と同じなんです。

カーネギーは、議論に勝っても相手の好意は絶対に勝ち得ることはできないと言っています。やっつけた方は大いに気を良くするでしょうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだけにおわるからです。

『関ヶ原』でも、司馬遼太郎は、三成が理屈をいって長政を批判したことに対して、「理屈など、いかにそれで言い負かしたところで、相手の名誉をうばうほか、なんの効用もない」と書いています。

カーネギーと司馬遼太郎が、人間関係に関して共通の洞察を持っていたことが分かりますね。

 

付録:人を説得する方法に係る賢人の言葉

議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それはむなしい勝利だ―相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから。(ベンジャミン・フランクリン)

自己の向上を心がけているものは、けんかなどするひまがないはずだ。おまけに、けんかの結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよけんかはできなくなる。こちらに五分の理しかない場合には、どんなに重大なことでも、相手にゆずるべきだ。百パーセントこちらが正しいと思われる場合でも、小さいことならゆずったほうがいい。細道で犬に出会ったら、権利を主張してかみつかれるよりも、犬に道をゆずったほうが賢明だ。たとえ犬を殺したとて、かまれた傷はなおらない。(リンカーン)

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